かつて、保津川には丹波山地で切り出された材木を、京の都へと運ぶ筏流しが盛んに行なわれていました。
保津川(桂川)の筏流しの歴史は古く、白鳳時代(645~710)に上流の京北・周山廃寺の造営に際して上桂川で筏流しが行われたとの記録が残されています。
また、平城京の寺院建築において丹波産の材木も使われていたことから、奈良時代には上流から下流までを通じた筏流しが行なわれていたと考えられています。そして784年(延暦3年)の長岡京遷都では、新しい都の造営に際して大量の材木が必要となったことから、保津川の筏流しは大きな役割を果たしました。
さらに、794年(延暦13年)に平安京に都が移されると、保津川の筏流しは単なる材木輸送だけではなく、物資の輸送という面でもますますその重要性が高まりました。
保津川の筏流しは材木や商品の運搬によって京都の町や人々の暮らしを支えた一方で、足利尊氏による天龍寺造営、豊臣秀吉による大坂城や伏見城造営など、その時代の大事業においても大きな貢献を果たします。
そのために、天正・文禄年間には、豊臣秀吉により流域の山本・保津(現亀岡市)や田原・世木(現南丹市日吉町)、宇津(現京都市右京区京北町)などの村々の人々に筏士の特権を与えて諸役を免除する朱印状が与られるなど、時の権力者からも特別な地位を与えられてきました。
近世末期には、商品経済の発達に伴って輸送も飛躍的に増加し、最盛期には毎年60万本もの材木が京都に送られるようになり、筏の中継所として栄えた流域の村々は、現在の丹波の基礎を形づくりました。
しかし、保津川の筏流しは明治~大正期の山陰本線の開通やトラック輸送の普及と共に次第に衰退し、
戦後、完全に途絶えてしまいます。
現在、保津川流域でご健在の元筏士は、たった3名。
貴重な伝統技術とともに、筏の記憶も今まさに途絶えようとしています。
かつて保津川を下っていた筏の復元は、保津川流域の歴史、そして千年の都平安京の造営に遡ることに通じます。
私たちは皆さまに筏復活プロジェクトを通じて貴重な歴史遺産を多くの方々に実見・実感していただくことで、「筏がつなぐ歴史の記憶」をよみがえらせたいと考えています。